花呆け童女
散り花が
踏まれぬようにと小さい手で
除けてたあなたを
覚えているわ
母方の祖母の二十三回忌で珍しくお会いした親戚の洋子さんから、はじめて伺った回想。祖母の家の庭に散った花びらを、歩く人が踏まぬよう、三歳位の私が手で端に除けていた様子を覚えておられたのだ。もちろん私自身は全く覚えがないが、花しか目に入らなかった私の幼児時代の花呆けぶりの、貴重な目撃者の談だ。
教壇に
挿した椿の花の向きを
直しにトコトコ出て行ったのよ
これはさんざん聞かされた母の言葉。自分でもかすかに記憶に残っている。小学一年の授業参観の日のこと。私は自宅から持って行って教壇に飾った椿の花が気になり、ついに教壇に出て行って、よく見えるように花の向きを直したのだ。大勢の父兄の参観している授業中のこの動作は、お行儀のいい母にどんなに恥ずかしい思いをさせたか。母は以後長くこの話を大人たちに語っては私を笑いのタネにした。
野のスミレ
手にあまるほど積みし我に
「佃煮にするのか」と笑いし父よ
小学一年の秋、母と私たち三人の子供は茨城の草深い田舎に疎開した。食べ物にも事欠く貧しく不便な生活だったが、私にとってはさまざまの野の花咲く夢の世界でもあった。このうたは、東京から様子を見にきた父が、役にもたたぬ花摘みに夢中になっている私をからかった一言をよんだもの。「つくだに」とはいったい何だろう?との疑問が、長いこと幼い私の胸に残った。
電灯も無き貧寒の疎開家に
「大手毬」咲く木ありし嬉しさ
「おおてまり」は、真っ白な、アジサイそっくりの花の咲く樹木の一種。当時七歳の私には初めて見る珍しい花で、その美しさは胸に刻まれた。この木の名前は、ずっとあとになって図鑑で見つけたもの。
母と子らが疎開している間に、目白の自宅は「山の手大空襲」で丸焼けになった。父は幸い無事で、燃える家に懸命に水をかけたと聞いている。住む家を失った我が一家が古巣の目白に復興バラックを建てて落ち着いたのは、私が小学六年のとき。目白の家では花の好きな父母といっしょだったし、父は花の絵をときに描いたので私も庭の花を描くようになった。だが父は思いがけず早くに世を去ってしまい、結婚して子供を持ったのちもしばらく目白に住んでいた私は、二人の子供の子育てで母には長く世話になった。
父を偲ぶ
一周忌(一九七一年)に咲いた薔薇
シルヴァムーン
初花蒼く咲き出でて去年のこの季節
父はありしを
ふかぶかと
花弁かさねし白薔薇の
別けて清きを父のみ前に
父いまさぬ庭なれど
五月の輝きにヘレントロ―ベル
たわわに咲きたり
とりどりに
薔薇咲き出でし美しさ
佇みて亡き父と語らう
三十回忌(二〇〇二年)中学同窓会の帰りに目白の家に寄った
昔の友達は、父が庭に咲かせた花の名前を覚えていた。
そのかみの
父が咲かせし庭の花
古き友らは数え上げたり
夏来れば
広き葉を伸べ丈高く
咲き出ずるカンナを育てたること
紅色の
小さき星の形した
蔓咲きの花「ルコー草」もありしと
月見草
見る間に開きゆくさまを
飽かず見つめし夕ぐれもあり
目のあたり
咲きほぐれゆく月見草に
父母ありし日の歓声を思う
夕顔の花開きゆく宵闇に
漂えるは亡き父母の息吹きか
人も庭も
うつろいゆきぬとりどりの
薔薇咲き継ぎし日は夢のごと
母の歌った童謡
幼き日
母の聞かせし童謡は
なぜか短調の旋律ばかり
遠き日に
聞きて忘れぬ母の歌
「藁屋に緋桃も咲いてます」
この歌は「ねんねのお里」という子守唄であることが後年に調べて分かった。幼い心に「哀愁」という情緒を刻みつけた歌の一つだ。この情趣が、老いた私にまだ生々しく、単純で「哀しい」俳句がいくつか自然に生まれ、ふいに胸に浮かぶ。
緋桃咲くふるさといずこ母無くて
緋桃咲く線路ぎわまで遠回り
遠くより母呼びてみん桃の花
正月、百人一首の思い出
たまさかに
父母そろい子供らの
かるたに加わる正月もありき
別人の如くはげしく取り札に
挑みしさまの母よなつかし
鮮やかに
かるた飛ばして勝ち続く
従兄に心ときめきており
歌の意味
分からぬままに胸に沁む
いと雅びなるそのひびきかな
幼き日
わが取り札は「有間山・・・」
さやさや風にゆらぐ笹原
いつの間に
幼き胸に刻みし語
「いでそよ人を忘れやはする」
詠まれゆく
かるたの意味はおぼろげに
心に留めて人に訊ねず
福井へ母の父母を訊ねた旅の二首
山寺に
陽は燦燦と。住職を
次ぐべき祖父は都市より帰らず
「あやめ咲く
九頭竜川を上り行き・・・」
と母と語りし祖母のふるさと
母の父親は、福井の山深い「風尾」の寺の長男に生まれ、本来住職を継ぐべき定めだったが東京へ出たまま帰らず,仏教研究の学者となった。お寺は 遠縁の人が継いでいた。寺の池傍にはシャクナゲの花が満開だった。
母の母親もやはり福井のお寺の生まれ、こちらはやや開けた地域、「九頭竜川をのぼって黒目という所」にある。お寺の庭先がすぐ川だった。母から聞いていただけのその地を、はじめて踏んだ。
母との別れ
「浜木綿」より抜粋
母の両親はどちらも長寿であったから、日ごろ丈夫だった母が七十七歳で亡くなってしまうとは私は思ってもいなかった。
母は夫の歿後、八ヶ岳の裾『八千穂』に小さな山荘を建てて夏の避暑地にし、家族や親戚
友人を招いて楽しませていた。そこで涼しい夏を二十余年過ごしたことは、なにかと忙しい母にとって本当に貴重な休暇であった。ここでは母の追悼文集にのせた私の短歌九十九首の中から一部を載せる。特に母といっしょに過ごした山荘の歌は、いずれも捨てがたかったが。
夜も昼も
点滴に繋がるその日より
衰えしるき母よ哀しき
病む母が
細き声にて歌いしふし節
「それから母さんどうしたの」
(母のお気に入りの童謡)
臥す母の
視界を出でずぽつぽつと
木瓜の枝など透かしおるかも
混濁の
闇にあらがいかぼそくも
母はその母を呼びたまいける
輝きの
夏の盛り場人満ちて
母に逝かれし我は迷子
緑深き
庭に向かいて臥したもう
哀しき母の姿浮かぶも
悔ゆるとも
今はすべなしやるせなき
老いの寂寥に耐えいし母
八千穂山荘で母を思う
朽ち葉積む
小路辿れど迎えくれる
母はいまさず寂し山の家
つば広の
帽子も小さきサブザックも
ありし日のまま母を待ちたり
ありし日の
母の息吹きか木々の香か
山の家に涙流れてやまず
振りかえり
立ちて待てどもすすき野の
かげより母は歩み来まさず
つりがね草
小さき鐘を吊りたれば
逝きたる母を悼みて鳴らせ
楽しきは
山荘の朝の涼しさに
パン焼ける匂い漂えるとき
楽しきは
山を描きしスケッチを
広げて母に褒めらるるとき
並外れ
暑がり母娘八千穂にて
「涼しいね」「ありがたいね」
と言い暮らしたり
初秋の
光まぶしき麦草の
花野に立ちて笑みし母はも
母の最後の年の八千穂暮らしはずっと私と二人で、往復の自動車は夫の世話になった。帰京の前に、夫が車で麦草峠までドライブしてくれたのを、母はとても喜んでいた。
「淋しい」と
鳴きて歯を剝く毒虫が
胸に住み着く母逝きてより
別れ告げず
去り行く夏の後ろ髪
つかみて問わん母はいずこと
不意打ちに
金木犀の香に逢えり
母なき日々も流れてやまず
秋の陽の
射すリビングでゆったりと
栗むきくれし遠き日の母
母なくて
誰と花見をせんものぞ
花のかけらは空を流るる
庭の花
描くかたえに母ありし
返らぬ日々を幸とこそ呼べ
八千穂 春―秋
山の絵を
描いてきたけど見てくれる
母はいなくて一人で見ている
「下手だなあ」と
どこかで父が笑っている
芽吹きの色に苦闘する私を
パレットに
うきうき「赤」を出したあと
さて難しや芽吹きの紅
年ごとに
八千穂を描いてきたけれど
どの絵を取っても「永遠の習作」
唐松の
高き梢に黙しつつ
イカルは夏の行方を追うか
あかあかと
木々を燃やせる夕焼けに
はや忍びよる高原の秋
蒼あおと
遠山並みのけざやかに
見ゆるあした朝ぞ秋来るらしも
唐松の
梢を鳴らす風の音
夏の盛りに秋はおとなう
胸深く
吸う唐松の香は甘く
別れがたしもこの山の家
おぞましや
雨降るごとき音立てて
新芽を喰らう毛虫の大群
(毛虫大発生の年)